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千葉地方裁判所 昭和29年(行)5号 判決 1956年4月10日

原告 宗教団体法華経寺 外六名

被告 千葉県知事

補助参加人 宇都宮日綱 外一名

主文

被告が昭和二十九年二月九日市川市中山町二丁目二百四十二番地旧宗教法人法華経寺の宗教法人法附則第五項による昭和二十七年八月九日附認証申請に係る規則に対してなした認証は無効であることを確認する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告等訴訟代理人は請求の趣旨として第一次に主文同旨の判決を求め、第二次に右請求の趣旨が認められないときは、被告が昭和二十九年二月九日市川市中山町二丁目二百四十二番地旧宗教法人法華経寺の宗教法人法附則第五項による昭和二十七年八月九日附認証申請に係る規則に対してなした認証はこれを取消す、との判決を求めた。

被告訴訟代理人は請求棄却の判決を求めた。

原告等訴訟代理人は請求の原因として、

訴状の請求の原因

昭和三〇年六月一四日附準備書面

のとおり陳述し、

被告訴訟代理人は答弁として、

答弁書

昭和三〇年四月二六日附第一準備書面

同日附補助参加人宇都宮日綱準備書面

昭和三一年二月一四日附第二準備書面

のとおり陳述した。

(立証省略)

理由

本件は被告たる千葉県知事柴田等のした認証の無効確認または取消を求める訴である。そして認証とは行政処分である。

行政処分の無効確認の訴または取消の訴の訴訟物は行政処分の適法性である。その適法性の主張、立証責任は原被告いずれにあるか。

行政処分は行政権の判断である。判断は理由付けを必要とする。すなわち、判断は判断において与えた事柄を理由付けなければならない。その判断を投げつけられた相手方または他人においてその理由のこれこれのところがこれこれしかじかに曲げられている、曲解されているといつて判断に対抗する。あるいは自分は自分で別の立場を持つといつて対抗する。判断した者が先ず理由付けをし、その理由付けの後に判断を投げつけられた者がその理由付けの一部が曲つており、あるいは他の立場がとれるといつて反対するのが判断の論理的構造である。

このようにして行政処分は行政権の判断であるから、その判断した者が訴訟において先ずその理由付けをしなければならないことは論理上必然なこととなる。

行政処分の無効確認訴訟または取消訴訟の訴訟物は被告たる行政庁のなした行政処分の適法性であり、その訴訟は行政処分の適法性の確定を目的とする。

このようにして、行政処分の無効確認の訴または取消の訴においては、原告が原告とならず、被告が被告とならず、被告が原告となり、原告が被告となる。原被告の地位は通常事件の原被告の地位と交替するのである。それは通常の消極的確認の訴と同一である。

行政処分の無効確認の訴または取消の訴においては被告たる行政庁がまず自己のなした行政処分の正当付けの主張、立証をしなければならない。被告たる行政庁が実質上の原告である。実質上の原告たる被告が先ず行政処分の正当付けをしなければならない。被告の正当付けの主張を待つて始めて原告がこれに答弁し抗弁することができるのである。

被告は、「被告の昭和二十九年二月九日附認証の同二十七年八月九日附旧宗教法人法華経寺主管者宇都宮日綱名義を以て認証申請に係る、宗教法人法附則第五項による同寺の規則の作成は、昭和二十一年三月二十日変更の寺院規則によりなされたものであつて、当該規則変更については千葉県知事に対する届出が適法になされているばかりでなく、昭和二十一年三月二十日当該規則変更に伴う旧宗教法人の登記事項の変更登記が適法に行われているので、当該旧宗教法人の規則として有効に存在したものであるから、当該申請は有効であり、従つて被告の認証は有効である。」と答えているが、昭和二十一年三月二十日なされた寺院規則の変更、またそれに伴う旧宗教法人の登記事項の変更登記が適法であることについては理由付けを欠いている。適法といゝ有効ということは法律にかなつて、法律にかなつた効果として生ずるものであつて、行政庁が適法といい有効といつたからといつて、適法または有効となるものではないことは当然である。

しかし、被告は次のとおり答弁している。

「法華経寺は、明治五年迄は日蓮宗と独立したものであつたが、同年六月九日教部省達第四号により政治的統制の処置から日蓮宗に所属せしめられたものであるから、教義と信仰に於て、同じ日蓮宗と謂うも全部同一のものとは謂えない。

かくの如く法華経寺は日蓮宗とは教義と信仰が同一でないからポツダム宣言の受諾並昭和二十年九月二十日勅令第五四二号、昭和二十年十月四日連合国最高司令官発日本帝国政府に対する覚書に依り、宗教の自由に対する制限が除去せられたのを機会として、昭和二十一年三月十二日檀徒総会の決議に基き、日蓮宗から離脱し、中山妙宗に所属し、同年三月十八日日蓮宗宗務院にも其の届出をなし同年三月二十日登記手続を済ませ同月二十七日千葉県知事に其の届出を為し宗教法人令に依る宗教法人法華経寺となつたものである。

其の後、宗教法人法に依り、昭和二十七年八月九日、千葉県知事に規則の認証申請をなし同二十九年二月九日付知事の認証を得、同月十一日設立登記手続を経由し、宗教法人法に依る宗教法人法華経寺として現在に至つたもので、此の外には宗教団体法華経寺なるものは存在しない。宗教団体法華経寺と称する原告は訴訟の適格を有するものではない。」

また、被告は次のように答弁している。

「昭和二十一年三月十二日の総会はポツダム宣言受諾に伴い発する命令、即ち同年勅令第五四二号と昭和二十年十月四日付連合軍最高司令部発日本政府に対する覚書即ち政治的社会的及宗教的制限除去に対するの件に基き日本国民が信仰の自由を得、内務省訓令等総代人の改選に関する制限の廃止により宗教団体法による昭和十八年当時の法華経寺の寺院規則が廃止せられ、其の適用が停止した時に檀信徒の総意を反映しその要望を実現したのである。……離脱当時までは政治的に統一した政府の方針に拘束され本尊問題に付き信条を異にする日蓮宗に所属したものであるが、前述のポツダム宣言の受諾に伴い発する命令並に連合国最高司令官発の覚書の発布により信教の自由を得たことを機とし離脱したもので信仰を異にする事が其原因をなすものである。……」

「原告等が今猶有効に存続するものと主張する法華経寺寺院規則(宗教団体法三二条により昭和十八年三月三十日認可されたもの)第五十六条には『後任総代は現任総代の同意を得て住職之を指命す』と規定してある。然れども昭和二十年十月四日附連合国最高司令部の日本政府に対する覚書によれば『政治的社会的及宗教的自由に対する制限除去の件』によつて宗教の自由に対する制限を設定し又は維持しようとする一切の法律、勅令、命令、条例、規則の総ての条項は廃止され、その適用が停止され、宗教団体法は勿論のこと、同法に基く寺院規則殊に右第五十六条の如きは明かに右覚書の趣旨に照らし其の効力を失つたものである。そこで昭和二十一年三月十二日新総代小川昨次郎外四名を指名しても旧総代山田等の同意を得なかつたのである。

仮りに右覚書の発布によつて、寺院規則の全部が廃止されないものとするも、少くとも覚書の趣旨に反するものは廃止されたものであるから、其第五十六条の如きは到底其の命脈を保持し得るものではない、是故昭和二十一年三月十二日制定の法華経寺の寺院規則は有効に成立したものである。殊に旧規則は檀信徒の総会の決議に基き法華経寺が日蓮宗を離脱し中山妙宗所属になつた時の寺院規則であるから、日蓮宗所属時代の総代であつた山田、小倉の同意を得るの要なきことも明瞭である。」

そして「昭和二十年十月四日連合国最高司令部発日本帝国政府ニ対スル覚書、政治的、社会的及宗教的自由ニ対スル制限除去ノ件」には、「一、政治的、社会的、宗教的自由ニ対スル制限並ニ種族、国籍、信仰乃至政見ヲ理由トスル差別ヲ除去スル為日本帝国政府ハ、イ、左記一切ノ法律、勅令、命令、条例、規則ノ一切ノ条項を廃止シ且直ニ其ノ適用ヲ停止スベシ、(一)思想、宗教、集会及言論ノ自由ニ対スル制限ヲ設定シ又ハ之ヲ維持セントスルモノ、天皇、国体及日本帝国政府ニ関スル無制限ナル討議ヲ含ム、ロ、前項イニ規定スル諸法令ハ左記ヲ含ムモ右ニ限定セラレズ、(一五)宗教団体法」とある。

占領軍は国際法によつて設けられた制限に従つて行動しなければならない。それは国内法において行政庁が国内法によつて設けられた制限に従つて行動しなければならないのと同じである。もし占領軍が国際法によつて設けられた制限を犯して行動したならば、占領軍は法律上の根拠なしに行動したこととなる。

占領軍は被占領国においてヘーグ陸戦法規に従わなければならない。

そしてヘーグ陸戦法規第四六条は、私権の尊重すべきことを命じ、一項は、「家族の名誉と諸権利、個人の生命、私有財産、宗教上の信念と神に奉仕する行為、は尊重されねばならない。」と定め、二項は、「私有財産の没収は許されない。」と定めている。

占領国が行動するための法律的権限は国際法の一般原則に基くのである。

被占領国の裁判官は、占領法規の国際法適合性を審査する権限を持つている。ただ占領中はそれを事実上、行使することができなかつたまでのことである。

今日、行政法においては特に重大なかしのある行政行為は法律上無効である。という命題が例外なく認められている。国際法違反の高権行為は特に重大なかしがあり従つて無効であるとは、占領当時から既に無効であつたのであつて、その無効を時の経過によつて主張できなくなるようなことはない。

平和条約発効後において裁判所は占領中の占領軍の高権行為の効力について裁判権を行使することをさまたげられなくなつたのである。

前記昭和二〇年一〇月四日附覚書は宗教上の信仰に関しヘーグ陸戦法規四六条第一項に違反しない内容をもつた高権行為でなければならない。

昭和二〇年一〇月四日附覚書はヘーグ陸戦法規四六条一項の拘束をうける、それよりも下位の法規であつて、陸戦法規を廃止する効力はない。

また同覚書のでた当時における寺院規則は陸戦法規四六条一項の保護を受けておるのであつて、従つて陸戦法規よりも下位の法規としての覚書には寺院規則を廃止する効力はない。

覚書が寺院規則を廃止する効力をもとうとするならば、それは国際法に違反する高権行為であつて無効である。覚書は右国際法と相容れる内容をもつた高権行為であると考えられる。

従つて宗教法人令はこの覚書の趣旨を法規化したものである。

従つて右寺院規則は覚書の後においても有効であつて、右の寺院規則を変更するについてはその五六条の制限に服し、その要件を充たさねばならないのである。五六条は「後任総代は現任総代の同意を得て住職之を指命す」と定めている。

然るに当時の主管者宇都宮日綱は現にある寺院規則を無視し、その制限に従わずその要件を充たさないで昭和二十一年三月十二日別に総代を定め、別に寺院規則を定め、これによつて前寺院規則の変更があつたとし、昭和二十一年三月二十日寺院規則変更に伴う旧宗教法人の登記事項の変更登記をした。このことは当事者間争いがない。若しも宇都宮日綱が昭和二十年十月四日当時の寺院規則の拘束を離れようとするならば、その寺院規則とその規則にもとずく宗教法人とは別に、自己の信仰に従うことはできようとも、現にある寺院規則等の拘束を無視することは法律の許さないところである。いわゆる離脱とは元来そのようなものである。

仮りに、寺の離脱ができるとしても、檀信徒総代の同意なくしては離脱することはできないのである。すなわち、寺院規則を変更して離脱する場合においては寺院規則の変更については檀信徒総代の同意を要するのであるから(宗教法人令第六条)、右の同意なくしては離脱できないことになるし、また、寺院規則を変更せずして離脱する場合を考えてみても、寺院規則の変更の場合においてすら檀信徒総代の同意を要するのであるから、離脱という従来の寺院規則を離れる点で変更よりも重大な行為をするには、法律の明文がなくとも当然檀信徒総代の同意を要すると解すべきものであつて、右の同意なき離脱は許されない。そして右のいずれの場合にも、その同意権者である檀信徒総代は従来の寺院規則により適法に選任せられた者でなければならない。従つて、被告主張の寺院規則の変更は、檀信徒総代の同意を欠くものとして許されない。

以上の理由によつて、昭和二十一年三月十二日に作られた寺院規則、同年三月二十日になされた登記事項の変更登記は法律上の根拠を欠いた無効な行為である。従つて宗教法人令による宗教法人法華経寺は法律の根拠を欠いた虚無な人格にすぎない。ただ登記簿上存在し、事実上宗教団体法当時の宗教法人法華経寺を継ぐものとして存在するにすぎないのである。

認証という行為は、いわゆる「双方的行政行為」である。

双方的行政行為または協力を必要とする行政行為と呼ばれている行政行為にあつては、申請は行政行為を与えるための本質的な前提条件であつて、行為が有効な申請なくして与えられたときは、欠くべからざる手続規定の違反となる。それ故に、協力を必要としながら、協力なくして与えられた行政行為は無効である。申請の欠缺は重大であつて、重大な意義を生ずるのである。

宗教法人令による宗教法人法華経寺は法律の根拠を欠いた虚無な人格である。この法華経寺が申請人として、昭和二十七年八月九日附をもつて宗教法人法附則第五項により規則に対する認証申請がなされた。それは有効な申請ではない。それは法律上の人格を欠くもののなした申請であるからである。被告千葉県知事柴田等が昭和二十九年二月九日市川市中山町二丁目二百四十二番地旧宗教法人法華経寺に対して為した規則の認証は、有効な申請なくして与えられた双方的行政行為として無効である。

被告は、

「本件の原告は宗教団体法華経寺として本訴を提起して居るが、被告としては、被告により認証を与えられて宗教法人法により設立された宗教法人法華経寺以外の法華経寺の存在は之を認めることは出来ない。原告が強いてその存在を主張するならば公の書類即ち公正証書でその存在を証明しない以上被告としては之れを認むることは出来ない。」

と答弁している。

しかし、事実上存在し、また登記簿上存在するが法律上存在しないのは被告がその規則を認証した宗教法人法華経寺である。被告がその規則を認証した宗教法人法華経寺が事実上存在し、登記簿上存在するため、昭和二十年十月四日覚書当時存在した宗教団体法による法華経寺はその法人格を中山妙宗法華経寺(昭和二十一年四月二十三日登記済)に奪われ、その後は法人としては存在せず宗教団体として存在を続けているものであるから、被告の前記答弁は理由がない。

被告は、

「仮に宗教団体法華経寺なるものが存在するとしても関観朗が如何なる理由によつて其の代表者たる資格を取得したのか公の書類即ち公正証書で之れを証明しない以上被告としては代表者たることを認める訳にゆかない。」

と答弁している。

しかし、宗教団体法華経寺は法人としてではなく宗教団体として存在するものであるから、その団体において代表者なりとするものが代表者となる。被告の右答弁は理由がない。

被告は、

「原告関観朗、同松永慈耀、小林知晃、同望月桓匡の四人は宗教団体法華経寺の参与なりとして本件訴訟を提起して居るが、被告としては、被告から認証を与えられて設立した宗教法人法による宗教法人法華経寺の外宗教団体法華経寺の存在は之を認めることは出来ない。従つて其の参与なるものがあるべきものではない。」

と答弁している。

しかし、前記のとおり宗教団体法華経寺の存在を認めることができるのであるから、被告の右答弁は理由がない。

被告は、

「原告山田三良、同小倉長太郎は昭和十八年から宗教団体法華経寺の総代であるとして本訴を提起して居る。然し前述のように宗教団体法華経寺の存在は認め難い従つて其の総代も認むることは出来ない。」

と答弁している。

しかし、前記のとおり宗教団体法華経寺の存在を認めることができるのであるから、被告の右答弁は理由がない。

右団体の存在する以上、その総代であるという者は、寺院とともに寺院規則の認証無効確認または取消を求める訴訟上の利益を持つている。

被告は、

「加之法華経寺が離脱の際檀信徒の内から五名の総代を選任し、その同意を得て寺院規則を制定したのであるから、宗教法人法附則第一二項の規定に照らして無効と謂うべきものではない。」

と答弁する。

しかし、宗教法人法附則第一二項に対する当裁判所の解釈は、原告の昭和三〇年六月一四日準備書面第一の(三)に記載するとおりである。

よつて被告の右答弁は理由がない。

被告は、

「原告は宗教法人法に依り設立した宗教法人法華経寺の規則の認証無効又はその取消を請求して居る。乍併宗教法人法第八十条によれば認証の取消は同法第十四条第一項第一号又は同第三十九条第一項第三号に掲げる要件を欠いている場合に限られる。」

と答弁する。

しかし、かしある行政行為の無効確認の訴または取消の訴についてはいわゆる列挙主義ではなく概括主義が許されているのであつて(憲法三二条、七六条二項)宗教法人法第八〇条もこれに反するものではない。被告の右答弁は理由がない。

被告が昭和三一年二月一四日附第二準備書面一項乃至六項において答弁するところは、前記被告の答弁とほぼ同一であるからこれに対する判断は前記と同一である。

被告は前記準備書面七項において次のように述べている。

「殊に認証によつて設立されるものは新に設立する宗教法人で認証前のものとは別なものである(宗教法人法附則第十八項参照)。是故に認証の適否に関する被告の審査権も当該申請の範囲に局限さるるもので、その以前の寺院規則が有効か否かの点に遡つて審査すべき筋合のものではない。」

この点に関する判断は前にある。殊に双方的行政行為に関する判断で説明した。

被告は右七項において更に、次のように述べている。

「甲第十号証最高裁判所の判決理由中に昭和二十一年三月十二日制定の寺院規則は恰も無効であるかのように説示せられて居るが、該判決を熟読するに宇都宮日綱に公正証書原本不実の記載の罪責あるや否やを審判した判決で寺院規則の無効を審判したものではない。右説示も判決に関与した判事の意見に過ぎないもので右のような説示があつても右寺院規則が無効だと確定したことにはならない。加之右最高裁判所の判決は昭和二十一年三月十二日制定の寺院規則に関するもので本件認証の対象となつた昭和二十七年六月十八日制定した寺院規則に関するものではない。従つて本件に於ては証拠にならない。」

宇都宮日綱に対する公正証書原本不実記載行使被告事件の判決(甲第十号証)には次のように書かれている。

「被告人の解するように、宗教団体法が昭和二〇年一〇月四日附連合国最高司令部の日本政府に対する覚書「政治的、社会的及び宗教的自由に対する制限除去の件」によつて直ちに失効したか否かは格別として、本件は昭和二〇年十二月八日勅令七一九号宗教法人令施行後の事件である。然るに右勅令は前記連合国最高司令部の覚書に則り制定公布されたものであるが、同勅令に依れば同勅令施行の際現に効力を有する寺院規則は同勅令に依る規則と看做されるわけで(附則二項)あるから、本件法華経寺々院規則も亦有効に存続するものと解すべきである。依つて、被告人のした小川昨治郎外四名の檀信徒総代の選任行為は右規則五六条に抵触し、無効であるからこれら新総代によつて決議制定された新寺院規則も亦無効なものであつて、本件変更登記申請は客観的には虚偽不実であるというべきである。」

右判決に書かれているように、宗教法人令附則二項により、同勅令施行の際現に効力を有する寺院規則は同勅令に依る規則と看做されるから、昭和十八年当時の寺院規則が有効に存続するのである。従つて宇都宮日綱が寺の代表者としてした小川昨治郎外四名の檀信徒総代の選任行為は右規則五六条に抵触し、無効であるから、これら新総代によつて決議制定された新寺院規則も亦無効のものであり、その後の行為も一切無効であることは、前に説明した通りである。

被告は右七項において、最後に次のように述べている。

「特に本件認証を違法なりとするときは七百年の由緒ある法華経寺が解散となり全国幾万の檀信徒をして信仰の目標を失わしむることになり、非常な混乱に陥らしむるは火を観るよりも明らかである。斯くなることは公共の福祉に適合しないものである。裁判所に於ては此点充分御考慮せられたい。(行政事件訴訟特例法第十一条参照)」特例法第十一条は行政処分取消の訴にだけ適用される例外規定であつて、かしの重大な無効確認の訴に類推適用すべきものではないから被告の答弁は理由がない。

被告は前記準備書面八項において、次のように述べている。

「裁判所は、民事訴訟法第百八十五条の規定に基き、口頭弁論の全趣旨を斟酌して正しい判決をすることと信じて居りますが、今本訴訟進行の過程を顧まするに、行政事件訴訟の公益性の故に活溌に発動されるものと期待して居たいわゆる釈明権の行使が極めて不充分であつたと考えられます。

又本訴訟に於ては、行政事件訴訟特例法第九条の規程による職権証拠調べが積極的に行われるものと期待し、且つ被告として特にこの点を要請しておいたにも拘らず遂に職権による証拠調は行われなかつたのであります。

行政事件でも、一般行政行為に関する訴訟に於ては、行政庁は当該行政行為の有効なことについて充分なる主張もし、立証もするのが常であるが、本件訴訟に於ては、この点について著しく趣を異にするものがあるのであります。即ち、信教の自由を尊重する立場から宗教法人法に定める認証行為を行う際の行政庁の立場は、言わば甚だ消極的でありまして、認証申請書類が法定の要件を具備して居るか否かを審査して認証の可否を決定するに過ぎず、

認証申請書類に記された寺院規則等が実質的に有効に成立したものであるかどうかというような実質的審査は行つて居らないのであります。

随つて、この基本的態度と照応して、本件訴訟の口頭弁論に於ても、被告は本件訴訟の請求の原因中で主張されて居る『寺院規則の無効』という点については必ずしも明瞭にこれを主張することなく、裁判所の釈明権の行使と積極的な職権証拠調べの権能の発動によつて、客観的真実が発見されることを期待して居る次第であります。意識しながら、口頭弁論を或る程度に止めざるを得ないというこの被告の立場を裁判所は充分認識されたいのであります。

本件訴訟の結果は、単に宗教法人法華経寺と取引関係を有する者に、利害関係を及ぼすのみならず数万名に上る檀信徒に重大な影響をもたらすものであつて、判決の結果が公共の福祉に及ぼす影響は蓋し甚大であると言うべきであります。

裁判所は弁論終結に当り行政事件訴訟特例法第九条の法意について格段の注意を払われるよう要望します。」

特例法第九条の職権証拠調を許した規定は、行政処分取消の訴にだけ適用される例外規定であつて、かしの重大な無効確認の訴に類推適用すべきものではないから、被告の右答弁は理由がない。

被告行政庁は活溌な釈明権の行使を裁判所に期待しているが、行政処分は行政庁のするものであつて裁判所はなされた処分の適法性を事後審査するにすぎない。そして行政処分の適法性については行政庁が主張、立証の責任を負うものである。この点については前に記したとおりである。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 高根義三郎 山崎宏八 浜田正義)

昭和三〇年六月一四日附準備書面(原告)

第一、原告宗教団体法華経寺の存在を否定する被告の主張について

一、原告主張の組織内容を有する宗教団体である法華経寺が、昭和二十一年三月十二日まで存続して来た点については、被告と雖も之を認めている。被告は、ただそれ以後現在に至るまでの原告宗教団体法華経寺(以下原告団体と略称)の存続について争つているに過ぎない。而もそれは、原告が訴訟請求原因第二、第三項において詳細に述べた右昭和二十一年三月十二日以降同二十七年八月九日までの間の宇都宮日綱並びにその一味少数の者が右昭和二十一年三月十二日被告も認める昭和十八年三月三十一日千葉県知事認可の原告団体(当時は法人)の組織活動の根本規則である寺院規則(甲第一号証の第二参照、以下規則と略称)を、目的(教義の大要)、被包括関係(所属宗派)、その他について原告団体の当時の法律上の機関である現任総代山田三良、中村勝五郎、小倉長太郎等五名の同意を得ることなく、従つて、宗教法人令第六条前段の要件を具備することなく、変更し、以後、右不法変更の規則を利用して、宗教法人法附則第十一項による決定と新規則を作成し、同法附則第五項により被告千葉県知事に対し、右新規則の認証申請を為すに至るまでの一連の不法専断行為を、単に適法であると主張することによつて原告団体の存在を否定する根拠となしているに過ぎない。

二、而して、右一連の不法専断行為についてその適法性主張の理由を要約すれば、次の通りである。

(一) 右原告団体の法人であつた時の昭和二十一年三月十二日現在の規則の効力については、已に甲第十号証最高裁判所第三小法廷昭和二六年(れ)第一六八号刑事判決の理由中当該関係についての判断によつても明かであるにも拘らず、同二十年九月二十日勅令第五四二号、或いは同年十月四日附連合国最高司令官発日本国政府に対する覚書(以下覚書と略称)を引用し、信教自由の原則の名のもとに、右勅令覚書に則り制定公布された宗教法人令(昭和二十年十二月八日勅令第七一九号)附則第二項までも黙殺し、右規則全部の効力を否定し、又は少くとも右規則第五十六条の失効又は廃止、適用停止を主張して右昭和二十一年三月十二日選任した右規則第五十六条違反の新総代である宇都宮一味の小川昨次郎、安藤宝照、石川磯雄、古川武男、中箸賢三郎の同意による右規則変更(甲第四号証の(二)8法華経寺檀信徒総会議事録参照)の有効を主張するに過ぎない。

(二) 又、右規則の変更決議をなした宇都宮日綱の所謂昭和二十一年三月十二日の檀信徒総会なるもの(甲第四号の(二)8)は当時の規則にはない(甲第一号証第一参照)、即ち法律上の寺の機関でもない単なる集会に過ぎない。而もその集会を以つて宇都宮は信者の代表の集会で僧俗一体の檀信徒の総意を集めたものというが、然し、その実体は、甲第八号証千葉地方裁判所昭和二十四年十月二十一日言渡刑事部判決の理由並びにその証拠説明を参照して明かなように、当時の住職であつた宇都宮と住職の手足である補助者及び法華経寺奥院住職松本日教等関係僧侶と、講社の代表又は世話人二人、その他は、松本日教の弟分鈴木日定を通じ右松本と昭和二十年夏頃から関係を生じた石川磯雄、古川武男等在家の者十数名乃至二十名足らずの少数範囲の者の集合であつて、要するに客観的には、右判決認定の通り、宇都宮の腹心、部下及び宇都宮の主張に反対しない少数の信者のみの集りであつて、その余の全般の者(寺の正当なる法律上の機関を含む)に対しては、事前において当初から、その利害関係上の意向も、又法律上の寺の機関としての権限等も表明乃至行使の機会を与える意思もなく、その承認(現任総代の同意はその例)は事後においても得ることが出来るという驚くべき宇都宮等の意図に出でた集会であることが歴然としている(右甲第八号証判決理由証拠説明参照)換言すれば、右は寺の目的被包括関係の設定廃止という、寺にとつて最も重大な事項に係る規則の変更について斯のような行為は、宗教法人令のみならず、宗教法人法の精神、従来からの慣行に著しく反する異常専断の行為であり、実質的にも形式的にも何等の合理的理由も合法性も認める余地はないし、又その被害を受ける全般者側にとつてこれ以上の信教自由を根本的に剥奪する憲法違反の行為はない。然るに前叙覚書などの引用と、信教自由の原則の単純放縦的適用論とにより、右集会の決議という方法によれば、寺自体にとつて、目的、所属宗派という組織活動の根本に関する規則の重大変更を、(尚別件千葉地方裁判所昭和二九年(ワ)第一五七号登記抹消請求等事件について、被告宇都宮日綱の昭和三〇年四月二六日附第一準備書面の五の項記述冒頭部分において、右規則変更を新規則制定と言いつつも、結局これは規則の変更であると自ら認めている。)その所属宗派についての規則の変更ということの対外的表現の一つである転宗離脱という特に離脱という言葉を単独に用いることによつて寺自体にとつての規則変更の意義を出来る限り稀薄化せしめ、その離脱(即ち規則の変更)についてはその決議の時の法律上の寺の機関である現任総代の同意はなくとも有効である、それは、その決議により変更前の規則は廃止されたのであるからとか、或いは離脱(規則変更)後に従つて変更された規則によつて新に選任せられた総代の同意を得ればよいものであるからとか、実に驚くべき独得の見解を以つて主張している。要するに規則変更を離脱決議という語により糊塗せんとするに尽きるものであつて、その理由のないことは深く論ずるまでもない程明らかである。

(三) 或いは、仮に右現任総代の同意が必要であるにしても、宗教法人法附則第十二項の趣旨に照せば、本件にあつては、その同意がなくても無効とは言えないと主張しているが、然し、右附則第十二項は規則変更について、檀信徒の直接参加する法律上の議決機関がない場合、信者即ち檀信徒或いはその他の利害関係人の意向を規則変更に際し出来る限り十分、且つ公平均等に反映せしめ、団体内部全般の意向を調整し団体という組織体の正当なる運営を目的としたものであつて、むしろ、規則変更に際し、一部の者又は法人の一機関(例えば本件の如く主管者)が、他の者又は他の法人機関(本件の如く現任総代)を無視し、その意向表明又は権限(例えば本件の如く現任総代の同意権)行使の機会を与えずして抑圧するというようなことを禁ずる趣旨のものであつて被告主張の趣旨とは反対のものである。

(四) 尚被告千葉県知事の答弁書によれば、叙上不法な規則の変更については、千葉県知事への届出及び昭和二十一年三月二十日当該変更に伴う旧宗教法人の登記事項の変更登記が適法に行われている云々とあつて、その「適法」とは如何なる文意か不明であるが、然し右届出と登記自体の存在を以つて直ちに当該変更或いは変更された規則自体の有効性又は対第三者対抗力の根拠と主張することは許されない。

以上の如く、何れもその主張は理由がなく、単に原告団体の昭和二十一年三月十二日以後の実体は所謂中山妙宗所属の外観上の新旧法人にまたがる法華経寺の側に在るとすることによつて原告団体の実体の存在を否定せんとする主張は、全く根拠がない。

要するに、原告団体の存在については、前記一、二、に詳述した如く、先づ昭和二十一年三月十二日現在までの存在については争のない事実であり、而して、同日以後現在に至るまでの存在についても右争のない実在の延長たる実体の上に、宇都宮日綱等一味少数の者の不法専断行為により、中山妙宗所属旧宗教法人、或いは、新宗教法人法華経寺という虚偽不実の法人が恰かも成立しているかの如き、仮装外観が加えられ原告団体の宗教団体としての正当なる運営活動に事実上重大な不法妨害が加えられていても、それは、本件原告主張の事実並びに証拠により、一見してその不法虚偽のものであることが明瞭であつて、換言すればその不法な仮装妨害は法的その他如何なる外的粉飾を伴つていても、飽くまでそれ以上の何物でもないことを明かにしているのであるから、その実体である原告団体の存続自体には何等の変更をも生ぜしめるものではない。その不法の妨害仮装が排除せられれば、直に本然の姿が紛れなく明らかとなるに過ぎない。

三、尚原告団体の存在を主張するには、公の書類(被告の所謂公正証書とは如何なる文意か不明)によつて証明する必要はなく、宗教団体として実在すればよいのであつて、その実在が一切の証拠によつて立証せられればよいものである。この点に関する被告主張は深く論ずるまでもなく理由がない。

第二、原告団体の代表者関観朗の代表者たる資格を否定する被告主張について

一、被告が原告団体の存在を否定する前提において関観朗の代表者たることおも否定する主張の理由のないことは、右第一に述べたところによつて明らかである。

二、被告は、(イ)原告団体の既往の系譜において法人(旧宗教法人)であつた時その被包括団体(所属宗派)が日蓮宗であつたから、非法人となつた現在も同宗派所属の宗教団体であるべき筈であつて、原告団体が旧宗教法人であつた時には寺の代表者(代務者)は寺で選任しても、任期九十日を以つて更新する所属宗派管長の任命によらねばならなかつたから、団体となつてもその代表者たるには同様でなければならぬ筈である、然るにその事実についての主張立証がないから、代表者たる資格がない、(ロ)又は、原告団体が旧宗教法人であつた時に代務者としての管長よりの任命がその後そのまゝ更新を省略して継続しているものとしても、それは旧宗教法人法華経寺が同宗派を離脱以後のことであるから無効である、(ハ)或いは同宗派では、その寺院名簿から法華経寺の寺名を削除しているから、所属外の寺の代務者を任命する理由もないと主張している。

原告団体は、一定の宗教目的を持つた団体、即ち宗教法人法上の非法人たる宗教団体としては、社会関係において一つの単位体であつて、代表者もその団体の代表者であることが明らかであればよいのである。法人としての宗教団体としてならば、代表者の資格について、或いは包括団体との制約関係を前提とした法律上の要件を形式上具備することを必要とするかも知れないが、非法人としての宗教団体としては、その必要はない。斯る代表者はその被包括団体に対してさえ、訴訟遂行権を有することを見ても、この点に関する被告主張の理由のないことは多く言うまでもなく明らかである(尚(ハ)の被告主張は意味を為さない。)

三、況や原告団体の代表者たる資格について公の書類による証明を必要とするという被告主張も全く理由がない。これは前記第一の三、及び右二、に述べたところにより明らかである。

四、尚原告団体は、宗教団体として社会的関係においての一つの単位体として実在しているものであつて、その実在としては、原告団体の過去の系譜に法人であつたことに関連する解散、若しくは新しく法人として発足せんとする、その何れの法的現象とも何等関係はない。

この点に関し原告団体は、法人の解散後のものであるから解散法人乃至清算法人でなければならぬので、原告団体の代表者は清算人の地位でなければならぬというが如き被告主張は何等の合理的根拠をも持つものではない。

第三、参与又は総代たる個人原告は本件訴訟に当事者適格がないとする被告主張について

一、団体は、実体法上のみならず訴訟上でも法人に準ぜられ、法的にその団体の秩序を肯定することは学説判例上の通説である。従つて、その秩序下に一定の権能を認められている地位が一つの法律的地位であることは多説を要しない。即ち、原告団体の参与又は総代たる地位も一つの法律的地位である所以である。

具体的に言えば、原告団体の前叙来の規則によると、参与総代は、次の通りの法律的権限を有するものであつて、原告団体の管理代表機関の選任又は管理機関の管理、運営などの活動に結び付いた権限を有する。即ち

(一) 参与は、原告団体の諮議、議決機関である参与会の構成員である(規則第三十条、第三十一条、第三十六条)。参与会は単なる諮問機関ではなく(規則第十四条、第二十一条、第三十六条、第七十一条)、原告団体の最も重要なる機関であつて法統会、総代と共に中枢的機関である。(規則第五節会議の項参照)。又参与は単に参与会の構成員たる地位に止まらないことは規則第十二条によるも明らかである。

(二) 総代は原告団体の機関であつて(規則第五十四条)、その権限は、各般の重要事項に亘つている(規則第二十一条、第五十六条、第六十九条、第七十条、第七十一条、第六十一条)。

尚宗教法人令第九条第二項「寺院の経営に関し主管者を扶く」とは、被告の言うような主管者盲従、属と同意語ではない。

参与者は総代である個人原告は、前記第一に述べた宇都宮日綱とその一味少数の者の不法専断に基く原告団体の規則の変更について諮問を受けず又は同意を求められなかつたというような単純な被告主張の理由を以つて本件訴訟を提起しているものではない。

即ち、本件認証によつて、原告団体は恰かも中山妙宗所属の宗教法人法附則第五項による新宗教法人法華経寺という外観上の虚偽不実の規則に所轄庁の公証が与えられ、個人原告の自己の団体内の秩序の地位においての各般の活動が不可能となつており、就中原告等は団体として法人となる行動も、法人としての団体の管理機構を定めることも不可能ならしめられ、個人原告各個の法律的地位を直接侵害するに至つているからである。即ち原告団体のために訴訟を提起しているものでもない。仮に百歩を譲り、直接の侵害でないとしても、右の如く法律上重大且つ実質的な利害を有し、本訴訟により救済の利益を受け得るものである。

而して、又、行政処分の取消を求める訴訟上の利益は、私法上の形成訴訟の場合と異なり、被告主張のように法律上特にその定めは存在しない。

三、被告の第一準備書面の五において述べる主張は、その文意不明であるが、仮に宗教法人法第八十条又は第三十九条に定める認証取消の場合を以つて、即ち、所轄庁の自律的に可能な行政行為としての取消の範囲を以つて、これに関する国民の最終的な権利の保護である司法的救済の限界をも規定したものであるとの見解であるとするならば、その誤謬の著しきことは最早指摘する必要もない。

第四、被告千葉県知事は、その本件答弁書において訴状請求原因第四項後段記載の事実は認めるが、前叙昭和二十一年三月二十日(十二日の誤記と認める)変更の寺院規則の有効無効に対し確定力を有するものではない、旧宗教法人法華経寺の登記事項を信頼して認証をなしたと主張している。

即ち、本件被告の認証前に、被告は、昭和二十八年七月八日本件原告等より、千葉地方裁判所昭和二七年(ヨ)第一二号寺院主管者職務執行停止仮処分命令申請書、東京地方裁判所昭和一八年(ノ)第二〇一号調停調書(甲第七号証参照)、最高裁判所第三小法廷昭和二六年(れ)第一六八号判決(甲第十号証参照)の各写を添えて、本件事実理由を具し、当該認証をすることができない旨の決定があるよう請願(千葉県総第四二号受付)を受けていたものである。然るに、この請願については、受理後、何等誠実な処理(請願法第五条参照)を行うことなく、請願書添付の、例えば、甲第十号証最高裁判所判決の如き、仮令、刑事判決とは言え、その理由中に、右の変更された規則の有効無効についての事実的法律的判定が明瞭に下されているにも拘らず、これを単に確定力がない信頼出来ないものとなし、而もその反面その判決理由において虚偽不実なりと断定せられた旧宗教法人法華経寺の登記事項は信頼出来るとしてこれを信頼して認証したというのであるから、この一点を見ただけでも本件認証に如何に著しき矛盾、違法或いは重大且つ明白な瑕疵が存在するかを有力に物語つているものと言わねばならぬ。

第五、尚被告補助参加人宇都宮は、その準備書面(昭和三十年四月二十六日)の五において前叙第一において触れた昭和二十一年三月十二日の規則変更に関し日蓮宗よりの離脱について陳述があるが、これは要するに、当時の団体たる寺の主管者たる地位にあつた宇都宮の主観的信条から、同人が離脱を計画し、これを僧俗一体とか檀信徒の総意を現わすとか称する所謂檀信徒総会(その実体は前記第一の二、(二)に述べた如く、宇都宮とその一味少数者の集りに過ぎない。)に表明して、その参加を得て行つたということが、明白になされ、而して、その前後に亘る右行為の正当性主張のための叙述の中において、宇都宮個人の立場と団体たる寺の立場が恰かも当然であるかのように混同せられ、従つて、内容の如何に拘らず、その個人の主観的信条に基く行為によつて、団体が遂に専断せられるに至つた経緯を示すに帰着し、以上結局原告主張の反面を証するものと謂うべきである。

答弁書

請求の原因に対する答弁

第一項について、市川市中山町二丁目二四二番地に所在する宗教団体法華経寺は、昭和二九年二月一一日までは、宗教法人法に所謂旧宗教法人であつたものであり、昭和一八年三月三一日千葉県知事認可の寺院規則は昭和二一年三月二〇日まで当該旧宗教法人の寺院規則であつたが、同日以後は訴外昭和二一年三月二〇日変更の寺院規則によりその目的、管理組織、運営が維持せられていたものであり、昭和二九年二月一一日以降は新宗教法人法華経寺となつたものである。

第二項及び第三項について、被告の昭和二九年二月九日附認証の同二七年八月九日附旧宗教法人法華経寺主管者宇都宮日綱名義を以つて認証申請に係る、宗教法人法附則第五項による同寺の規則の作成は、前記昭和二一年三月二〇日変更の寺院規則によりなされたものであつて、当該規則変更については千葉県知事に対する届出が適法になされているばかりでなく、昭和二一年三月二〇日当該規則変更に伴う旧宗教法人の登記事項の変更登記が適法に行われているので、当該旧宗教法人の規則として有効に存在したものであり、その第三者に対する対抗権についても疑う余地のないものであるから、当該申請は有効であり、従つて被告の認証も有効である。

第四項について、第四項後段記載の事実は認めるが、右は前段の記載事項と同様、前記訴外昭和二一年三月二〇日変更の寺院規則の有効無効に対し確定力を有するものではない。

以上の如く被告の本件認証は、旧宗教法人法華経寺の登記事項を信頼してなされたものであり、当該宗教法人が解散せる昭和二九年二月一一日まで前記登記事項について訂正若しくは抹消等の事実がないのであるから、被告の認証を無効とし、若しくは取り消すべき何等の理由もないものである。

昭和三〇年四月二六日附第一準備書面(被告)

一、本件の原告は宗教団体法華経寺として本訴を提起しているが、被告としては、被告により認証を与えられて宗教法人法により設立された宗教法人法華経寺以外の法華経寺の存在はこれを認めることは出来ない。

原告が強いてその存在を主張するならば公の書類即ち公正証書でその存在を証明しない以上被告としてはこれを認むることは出来ない。

二、仮に宗教団体法華経寺なるものが存在するとしても関観朗が如何なる理由によつてその代表者たる資格を取得したのか公の書類即ち公正証書でこれを証明しない以上、被告としては代表者たることを認める訳にはゆかない。

三、原告関観朗、同松永慈燿、同小林智晃、同望月桓匡の四人は宗教団体法華経寺の参与なりとして本件訴訟を提起しているが、被告としては、被告から認証を与えられて設立した宗教法人法に依る宗教法人法華経寺の外宗教団体法華経寺の存在はこれを認めることは出来ない。従つてその参与なるものがあるべきものではない。

昭和二一年三月当時即ち法華経寺が日蓮宗より離脱前の寺院規則によるもその第三〇条に「主要なる寺務につき住職の諮問に答うる為参与会を置く」旨の規定はあるが、参与たる個々の人々をして諮問に答えしめては居らない。又参与会も住職の諮問に応うる丈のことであるから住職の都合で諮問せず寺務を遂行してもそれを無効とは謂えない。例えば参与会に諮問せずに寺院の規則を改めてもその改廃が無効であるとは謂えないのである。況んや参与会としてではなく参与たる個々の人々においては斯る主張を為し得べきものではない。更に詳論すれば参与たる個々の人々にせよ、参与会にせよ寺院規則の制定に付き諮問を受けなかつたとして、宗教法人法に基き認証を与えた第三者たる被告に対し認証無効確認又は取消を求むるような訴訟上の利益は、法律において特に認ない限り当然有し得べきものではない。宗教法人令によるも斯くの如き訴訟を為す権限を参与たる個々の人々は勿論参与会にも与えて居らぬから原告等の本訴請求は他の点の判断を待つまでもなくその理由はない。

四、原告山田三良、同小倉長太郎は昭和一八年から宗教団体法華経寺の総代であるとして本訴を提起して居る。然し前述のように宗教団体法華経寺の存在は認め難く、従つてその総代も認むることは出来ない。

仮りに総代があるとするも、宗教法人令第九条の規定によれば、総代は寺院の経営に当り主管者を扶くべきものである。是故に昭和二一年三月一二日法華経寺が檀信徒総会の決議に基き日蓮宗から離脱した際制定した寺院規則に付右両原告の同意を求めなかつたとしても、これを理由として訴訟を為し得べきものではない、蓋し斯のように寺院のために寺院規則の認証無効確認又は取消を求むる訴訟上の利益を特に法律において認めない限り訴訟の提起は許さるべきものではない。宗教法人令及現行法たる宗教法人法の規定によるも此のような訴訟提起の権限を認めていないから、此の点から観ても両原告の本訴はその理由はない。加之法華経寺が離脱の際檀信徒の内から五名の総代を選任し、その同意を得て寺院規則を制定したのであるから、宗教法人法附則第一二項の規定に照らして無効と謂うべきものではない。

五、原告は宗教法人法に依り設立した宗教法人法華経寺の規則の認証無効又はその取消を請求して居る、乍併宗教法人法第八〇条によれば認証の取消は同法第一四条第一項第一号又は同第三九条第一項第三号に掲げる要件を欠いている場合に限られる第一四条第一項第一号は設立した団体が宗教団体たる要件を欠いている場合第三九条第一項第三号は合併後成立する団体が宗教団体たる要件を欠いている場合で、取消の原因は二者共に成立する団体が宗教団体たる要件を欠いている場合である而して宗教団体とは宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体で一、礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院、その他これらに類する団体、二、前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区、その他これらに類する団体」を指すものであることは宗教法人法第二条の規定するところであるから認証の取消は成立する団体がこの要件を欠いている場合に限られて居る。

六、原告は宗教団体法華経寺とは昭和二七年一〇月三日迄は所謂旧宗教法人であつたが同日以後宗教法人法第二条の非法人たる宗教団体となつたものでその代表者が関観朗なりと主張する。そこで原告の謂う宗教団体の存在を事実と仮定して考えてみるに、

(一) 原者の謂う宗教団体は宗教法人令による宗教法人をその前身とするものである。原告の主張する昭和一八年三月三一日千葉県知事認可の寺院規則が有効なるものとすれば原告の謂う宗教団体の前身である旧宗教法人法華経寺は日蓮宗所属の寺院であり従てその法人が解散し法人格を喪失し宗教団体となつても亦日蓮宗に所属するものと謂わなければならない。処で関観朗は昭和二一年八月二〇日寺院規則第二〇条第二一条により法華経寺の代務者に選任せられ、以後今日に至るまで代表者であると謂うがその選任は日蓮宗管長よりの任命でなければならずその後も依然代務者としての任命がなければならない。然るに原告の謂う宗教団体法華経寺の所属宗派たる日蓮宗が右の事実を主張したことはなく亦関が自ら之を主張し証明した事実もない、日蓮宗では既に法華経寺を寺院名簿より削除して居るから所属外の寺院に代務者を置く理由もない。従つて関観朗の住職代務者でないことも明瞭である、此点からするも本訴請求は何れも失当である。

(二) 宗教法人法の解釈によれば原告の主張する非法人たる宗教団体法華経寺なるものは宗教法人令による法人が解散した後の団体を指称することになる、宗教法人令による宗教法人法華経寺は宗教法人法によつて昭和二七年一〇月二日迄に所轄庁たる被告に対し認証申請をしなければ同日で解散となることは同法の明定するところである、従つて関観朗が日蓮宗所属の法華経寺の住職代務者でしかも寺院を継続せんとするならば当然昭和二七年一〇月二日までに新法人となる為め規則を作成し、公告を為し、所属宗派たる日蓮宗の承認と住職代務者の資格を証する書類を添えて被告知事に認証申請をしなければならなかつた筈である、たとえ宇都宮日綱が主管者として為した法華経寺の認証申請と重複し競願となつても右のことは当然実行が出来たのである、而して右の結果原告より申請したものが被告より不認証となつたと謂うならば、旧宗教法人から止むを得ず非法人となつたとも謂えるかも知れないが右のこともなかつた、従つて原告の謂うこともそのまゝ事実なりと仮定して考えても昭和二七年一〇月二日に原告の謂う旧宗教法人法華経寺は当然解散しその法人格を喪失したと結論しなければならぬ、果して然らば所属宗派たる日蓮宗の承認を得て解散の日において清算人を選任し解散の登記をしなければならなかつた筈である(宗教法人令第一二条及日蓮宗々則)然るに関は清算人に選任された事実もなく所属宗派から承認された事実もない、即ち解散後はその解散法人の代表者たる地位を有せないものである、この点から観ても関が代表者だとは謂えない、従つて本訴請求は失当である。

以上孰れの点から観ても原告等の請求は其の理由のないものである。

昭和三〇年四月二六日附補助参加人宇都宮日綱準備書面

一、宗教団体法華経寺は原告の一人になつて居るがこれは実在するものではない。蓋し法華経寺は明治五年迄は日蓮宗と独立したものであつたが同年六月九日教部省達第四号により政治的統制の処置から日蓮宗に所属せしめられたものであるから教義と信仰に於て同じ日蓮宗と謂うも全部同一のものとは謂えない。

斯くの如く法華経寺は日蓮宗とは教義と信仰が同一でないから「ポツダム宣言の受諾並昭和二十年九月二十日勅令第五四二号昭和二十年十月四日連合国最高司令官発日本帝国政府に対する覚書」に依り宗教の自由に対する制限が除去せられたのを機会とし昭和二十一年三月十二日檀信徒総会の決議に基き、日蓮宗から離脱し中山妙宗に所属し同年三月十八日日蓮宗宗務院にも其の届出を為し同年三月二十日登記手続を済ませ同月二十七日千葉県知事に其の届出を為し宗教法人令に依る宗教法人法華経寺となつたものである。

其の後宗教法人法に依り昭和二十七年八月九日千葉県知事に規則の認証申請を為し同二十九年二月九日付知事の認証を得、同月十一日設立登記手続を経由し宗教法人に依る宗教法人法華経寺として現在に至つたもので此の外には宗教団体法華経寺なるものは存在しない。従つて宗教団体法華経寺と称する原告は訴訟の適格を有するものではない。

二、関観朗は法華経寺が日蓮宗を離脱した後即ち昭和二十一年八月二十日当時の日蓮宗管長代務者馬田即貞の承認により法華経寺の代務者に就任したものとして宗教団体法華経寺の代表者と称し本訴を提起して居るが同人を代務者と承認したことは意味を為さない、亦当時の日蓮宗宗則中「住職及担任教師選定規則第二十四条」によれば代務者の任期は九十日間に限られ更に、承認がなければ任期が継続するものではない、其後昭和二十六年六月五日迄継続したとのことであるが其後は法華経寺の代務者として承認された事実もなく亦その主張もないから仮りに同人を代務者として承認したことが適法であるとしても同日以後は代務者たる資格がなくなつたのである。

是故に原告等の言うように宗教団体法華経寺が存在するものと仮定するも関観朗はその代表者ではない。

三、原告関観朗、同松永慈燿、同小林智晃、同望月桓匡の四人は宗教団体法華経寺の参与なりとして本件訴訟を提起して居るが宗教団体法華経寺が実在的のものでないことは前項で述べた通りである。一歩を譲り仮りに実在するものとするも離脱前の法華経寺の寺院規則に依れば其第三十条に「本寺院の重要なる寺務に付き住職の諮問に応うる為参与会を置く」と規定して居る由是観之住職の諮問に応うる者は参与会であつてその構成員たる参与ではない。又参与会も住職の諮問に応うる丈けのことであるから寺務が重要であつても住職の都合で参与会に諮問しないで遂行しても其の行為を無効だとは謂えない、従つて参与会と謂も離脱後の昭和二十一年三月十二日制定に係る旧法華経寺の寺院規則の無効を主張し得るものではない、況んや参与会そのものでもない参与たる個々の人々に於ておや。

更に一歩進んで之を論ずれば参与たる個々の人々にせよ、又参与会にせよ寺院規則の制定に付き諮問を受けなかつたとして宗教法人法華経寺寺院規則の認証を与えた被告に対し認証無効確認又は取消を求める訴訟上の利益は法律に於て特に認めない限り当然有し得可きものではない。宗教法人令によるも将又現行法たる宗教法人法に依るも斯くの如き訴権は参与会並に参与たる個々の人々に与えてない。原告等の本訴請求は他の判断を待つまでもなく失当と謂わなければならない。

四、原告山田三良、小倉長太郎の両名は昭和十八年から現在に至るまで猶お宗教団体法華経寺の総代であるとして本件訴訟を起して居るが、宗教団体法華経寺は実在的なものでないことは既に述べたところである、凡そ総代は檀信徒の中に於て衆望の帰するもので寺院の所在地方に定住するものたることを要するのであるが右両名は法華経寺の教義を信奉するものでもなく葬祭其他の儀式を委託するものでもなく寺院の経費の如きはもとより負担するものでもなく、亦檀信徒の衆望を担うものでもなく法華経寺の所在地方に定住するものでもなく撤頭撤尾宇都宮日鋼の排斥に専念し、実質的に観察して総代たる資格はないものである。一歩を譲り形式的に観て総代であると仮定するも宗教法人令第九条の規定によれば総代は寺院の経営に当り主管者を扶くべきものではあるが昭和二十一年三月十二日法華経寺が日蓮宗を離脱した際制定した寺院規則に付主管者から同意を求めなかつたことを理由として寺院のために之が無効確認を求むる訴訟上の利益は法律で特に認められない限り之を理由として訴訟の実施を為す権限を有するものではない、要するに山田、小倉両名も本件訴訟の適格を有しないものである。

以上の次第であるから原告等の本訴請求は他の点の判断を待つまでもなく其の理由はないものである。

五、離脱に付て

原告等は請求原因の二項(1)の下に於て「宇都宮は昭和十二年三月法華経寺(宗教団体法時代)の住職に推薦されたものであるが、日蓮宗宗派管長となろうとして策動した為宗罰処分を受け、法華経寺の住職たることを失格し其の地位を失つたので」と陳述しているが誣罔も甚しい。法華経寺は信仰上の問題に付き日蓮宗宗務院と信条を異にした所から当時の宗務院は横暴にも補助参加人に対し僧階二階級降退の懲戒宣告をしたのである。此は日蓮宗ではよく用いる手で是迄も日蓮宗宗務院内の幹部個人の意に添わぬ為め懲戒処分によつて僧階降退せられ、或は僧階剥奪の悲運に接した者もある。

補助参加人が宗罰処分されたのは信仰上の問題で意見を異にしたがためで日蓮宗の管長問題とは全然関係はない。

亦法華経寺が日蓮宗から離脱したのも信仰上意見を異にするが為である。左に離脱の真相を開陳せんに、

法華経寺が日蓮宗を離脱したのは歴史上の理由、信教の自由から必然的に到達した檀信徒の総意に基くもので謂わば僧俗一体の結束活動によるものである。抑も法華経寺は文応元年開創以来七百年に及び中山門流と称し一派独立の本山であつた。日蓮大上人の最高の教典であり教義の中心生命である観心本尊鈔を所蔵し其の信仰に於て他の寺院とは全く異なるものである。

宗教団体法制定当時は日蓮宗が時流に迎合し三派合同(日蓮宗、本門宗、顕本法華宗)を実行し教義の異つたものを包括したために政治的に統一が出来ても、教義上、信仰上歪められた性格を持つに至り法華経寺の主張は容れられず教義上、信仰上益々法華経寺の主張と異つた方向に進んだのである。法華経寺には古くから其の信仰に帰依した信者の集団で其の所属の教会、結社、講社があり(之等は原告等の所謂法縁ではない)又本山末寺の関係が法律的、経済的に絶縁した後に出来た檀徒があり、住職や役職員等の布教宣布の結果新に帰依した信徒がある。是等の信者は法華経寺を経済的に外護して居るもので法華経寺が宗教団体法による本尊記載問題に端を発して以来二十年に渉る事件中の間も微動だにせず寺院の維持が出来たのも是等多数の信者の外護力によるもので原告等からは何の協力、何の援助をも得て居るものではない。是等信者が終戦と共に、信仰の自由を享有し法律的にも解放せられ、法華経寺の正しい信仰と本尊を主張し、ボス共と闘い続け、補助参加人が法華経寺の離脱の計劃あるを表示するや欣喜雀躍して参加し法華経寺の伝統に目覚め結集するに至つたものである。原告は法華経寺檀信徒の総会を目して補助参加人の輩下の者の少数の集会なりと謂うも該総会に出席した人々は信者並に所属の教会、結社、講社の代表者で、その背後に幾千幾万の信者があるのである。

是故に昭和二十一年三月十二日の総会はポツタム宣言受諾に伴い発する、命令即ち同年勅令第五四二号と、昭和二十年十月四日付連合軍最高司令部発日本政府に対する覚書即ち政治的社会的及宗教的制限除去に対するの件に基き日本国民が信教の自由を得内務省訓令等総代人の改選に関する制限の廃止により宗教団体法による昭和十八年当時の法華経寺の寺院規則が廃止せられ、其の適用が停止した時に檀信徒の総意を反映しその要望を実現したのである、原告等は法華経寺が日蓮宗から離脱したことを恰も反逆者のように謂うが前にも一言したように元来法華経寺は明治五年太政官の命に依り日蓮宗に所属せしめられたものであつて、始めから日蓮宗所属のものではない、国家権力によつて所属せしめられたものである、離脱当時までは政治的に統一した政府の方針に拘束され本尊問題に付き信条を異にする日蓮宗に所属したものであるが、前述のポツタム宣言の受諾に伴い発する命令並に連合国最高司令官発の覚書の発布により信教の自由を得たことを機とし離脱したもので信仰を異にする事が其原因を為すものである。日蓮宗の管長となる望みが絶えた故離脱したと言う如きは誣罔も甚しいものである。宜なる哉離脱前の法華経寺の寺院規則に信条として其第四条に「本寺院は宗祖奠定の大曼荼羅を以て本尊とす」と規定し日蓮宗の宗門に拘束されて居つたが、離脱後は「この法人は観心本尊鈔所顕の大曼荼羅を本尊として、宗祖日蓮大法主当身の大事たる観心本尊鈔所顕の三大秘法を弘伝し、立正安国の願業を実現するため、中山妙宗の教義をひろめ、儀式行事を行い信者を教化育成し、その他この寺院の目的を達成するための業務及び事業を行うことを目的とする。」と規定したことによつて観るも明かである。

六、訴状請求原因第四項で原告関観朗等四名総代二名を法華経寺の機関だと謂うが原告関観朗、松永慈燿、小林智晃、望月桓匡は参与であるとするも法華経寺の機関ではない。又山田三良、小倉長太郎の二人も総代であつたと仮定するも総代は法華経寺の機関ではない。亦是等参与、総代は法華経寺を代表するものでもない。

七、猶お訴訟の内容に付て一言せんに、原告等が今猶有効に存続するものと主張する法華経寺寺院規則(宗教団体法三二条により昭和十八年三月三十日認可されたもの)第五十六条には「後任総代は現任総代の同意を得て住職之を指命す」と規定してある、然れども昭和二十年十月四日附連合国最高司令部の日本政府に対する覚書によれば「政治的社会的及宗教的自由に対する制限除去の件」によつて宗教の自由に対する制限を設定し又は維持しようとする一切の法律、勅令、命令、条例、規則の総ての条項は廃止され、その適用が停止され、宗教団体法は勿論のこと同法に基く寺院規則殊に右第五十六条の如きは明かに右覚書の趣旨に照らし其の効力を失つたものである。そこで昭和二十一年三月十二日新総代小川昨次郎外四名を指名しても旧総代山田等の同意を得なかつたのである。仮りに右覚書の発布によつて、寺院規則の全部が廃止されないものとするも、少くとも覚書の趣旨に反するものは廃止されたものであるから其第五十六条の如きは到底其の命脈を保持し得るものではない、是故昭和二十一年三月十二日制定の法華経寺の寺院規則は有効に成立したものである。殊に旧規則は檀信徒の総会の決議に基き法華経寺が日蓮宗を離脱し中山妙宗所属になつた時の寺院規則であるから、日蓮宗所属時代の総代である山田、小倉の同意を得るの要なきことも明瞭である。斯る次第であるから何れの点から観ても原告等の本訴請求は理由のないものである。

昭和三一年二月一四日附第二準備書面(被告)

一、原告等が認証無効を主張する理由は甲第一号証の第一の中原告の所謂昭和十八年三月三十一日千葉県知事の認可した法華経寺寺院規則(以下単に旧寺院規則と謂う)第三十条、同第三十六条、同第五十一条、同第五十六条により法華経寺に於て旧寺院規則を変更するには参与会、法統会に附議し、総代の同意を得なければならぬのに是等を無視し、昭和二十一年三月十二日之を変更したのであるからその変更は無効であり、之に基いて為した本件認証申請も無効だと謂うに存る。

二、既に陳べた通り昭和二十一年三月は現在の憲法発布前であつたがポツタム宣言並にポツタム宣言受諾に伴い発する命令即ち昭和二十年勅令第六四二号、同年十月四日、連合国最高司令官から日本政府に対する覚書が発せられ該覚書には宗教の自由に対する制限……を除去する為日本帝国政府に対し

イ、左記一切の法律、勅令、命令、条例、規則の一切の条項を廃止し且直に其の適用を停止すべし

(一) ……宗教……の自由に対する制限を設定し又は之を維持せんとするもの

ロ、前項イに規定する諸法令は左記を含むも右に限定せられず

(一五) 宗教団体法

云々と明記してある、而して右覚書は連合国最高司令官から日本国政府に対し発したもので当時の我国に於ては憲法を以てするも妨げ得ない至上命令であつたことは謂うを待たない。

三、旧寺院規則は宗教団体法に基き制定したものであるから右覚書により廃止せらるべきものであり廃止前でもその適用は直ちに停止されたものである、換言すれば全部適用してはならぬものである、少くとも覚書の趣旨に反するものは死文化したものである、殊に昭和二十一年三月十二日の法華経寺の檀信徒総会の決議は議事録記載の通り第一号議案として「法華経寺独立に関し所属宗派たる日蓮宗より離脱するの件」で第二号議案は「中山法華経寺寺院規則は之を廃止し妙宗に依る中山法華経寺規則制定に関し……起草委員選任し云々」とありて以上各議案は満場一致可決されたもので、従来の所属宗派たる日蓮宗から離脱し、同宗とは信仰も異にする中山妙宗所属に転派転宗の為めである、寺院が孰れの宗派に所属するかは信仰及宗教上の行為の自由に属する以上之を制限する規定は存在するも新憲法発布以前は前記覚書の趣旨に反するものであり憲法発布後の今日に於ては信仰及宗教上の行為の自由を保障する憲法に抵触するものである、このような場合には所属宗派であつた日蓮宗の主管者の承認を要しない、原告関、松永、小林、望月、は当時法華経寺の参与であつたと仮定するも

関は日蓮宗所属徳大寺の住職であり

松永も同じく実相寺の住職であり

小林も同じく安生院の住職であり

望月も同じく題経寺の住職である

孰れも日蓮宗所属の僧侶共であるから法華経寺の離脱に同意することを期待し難いことは主管者の承認を得られないと同様であるばかりでなく主管者の承認さえなきに出来るものが参与である右原告等の同意を得る要なきことは自明の理である。

殊に宗教法人法第十二条第一項第十二号に寺院相互間の制約規定を明記しなければならないのに右原告等の寺院規則にも宗教法人法華経寺規則にもこのことは規定してない、是故に右原告等の主張は理由はない。

四、旧寺院規則第五十六条も前述の覚書によりその適用は停止され死文化したものである、同条には「後任総代は現任総代の同意を得て住職之を指命す」と規定しあり該規定の文理解釈のみによれば寺院が総代を改任せんとするも現任総代の同意がない以上後任総代を選任することは不可能である、本件の原告山田、小倉は実質的に観て総代でなかつたことは昭和三十年四月二十六日附補助参加人の準備書面第四項に述べたように右両名は法華経寺の教義の信奉者でもなく葬祭その他の儀式を法華経寺に委託するものでもなく、寺院の経費を負担する者でもなく檀信徒の衆望を担うものでもなく法華経寺所在地方に定住する者でもないとすれば旧寺院規則第五十二条により檀信徒たる資格がないものである総代であつたと仮定するも同条の規定あるがため善良なる後任総代の選任も出来ず、日蓮宗からの離脱も転宗転派も不可能とするような原告代理人の主張は前記覚書の趣旨に反するは勿論今日に於ては信仰及び宗教的行為の自由を保障した憲法に抵触する見解である、殊に況んや原告等は中山妙宗の教義を信奉するものではないから日蓮宗を離脱し中山妙宗所属に転宗するにつき是等原告の同意を得ることは到底期待し得られない事柄である。

五、旧寺院規則第五十八条によれば「総代の選任、解任、任期満了又は死亡の場合に於ては住職は法令の定むる所に依り遅滞なく市川市長に之を届出ずることを要す」とありこの届出に関しては昭和二十一年二月二日附の内務大臣三土忠造の訓令第八号により廃止されたからその手続は要らないが総代の解任も出来得ることは同条の規定により窺知し得られる、当時法華経寺に於て総代解任の意思は明示的にはないが総代に触れることなく日蓮宗からの離脱を決議したことから観れば山田等が仮りに総代であつたとするも暗黙の意思表示により当時の主管者に於て解任したものと解するのが至当である、果して然りとせば離脱に付て総代の同意が必要であると仮定するも同意の求めようもなく亦後任総代を選任するに付ても同様である。

六、請求原因第二項によれば「……宗教団体の真正な実体とは無関係に同二十一年三月十二日訴外宇都宮日綱等一部少数の者が不法専断を以て同人等一部を除く実体全休を排除抑圧して不法に変更した虚偽不実の違法無効な規則に従つて行われたものであつて……当該新宗教法人の規則としても虚偽不実の違法無効のものであるからその認証申請も違法無効のものである云々」とあり、これによつて観れば原告等の所謂違法無効な規則とは昭和二十一年三月十二日制定の寺院規則を指すもののようであるが、認証申請に係る寺院規則は昭和二十七年六月十八日制定の「宗教法人法華経寺」規則即ち乙第二号証の二である。同規則は認証の対象としては完全なるものである、該規則を基本として宗教法人法第二条の教義、儀式、礼拝の施設同第三条の境内建物、境内地等を初めとし、其他登記等あらゆる方面に付て調査するも被告として認証を拒否すべき点は一つもない、加之法華経寺の所属宗派である中山妙宗も昭和二十八年二月十六日文部省から認証され(乙第四号証の一、二)之に対し一年以内に何人からも異議の申立もない、亦原告関観朗は昭和二十一年八月二十日法華経寺の代務者に就任したと謂うも被告に対し主管者変更の届出もなく、法華経寺主管者から届出た昭和二十一年三月十二日制定の寺院規則も無効であることの届出もない、要するに本件認証申請は適法妥当なものである。

七、殊に認証によつて設立されるものは新に設立する宗教法人で認証前のものとは別なものである、(宗教法人法附則第十八項参照)是故に認証の適否に関する被告の審査権も当該申請の範囲に極限さるるものでその以前の寺院規則が有効か否かの点に遡つて審査すべき筋合のものではない、甲第十号証最高裁判所の判決理由中に昭和二十一年三月十二日制定の寺院規則は恰かも無効であるかのように説示せられているが該判決を熟読するに宇都宮日綱に公正証書、原本不実の記載の罪責あるや否やを審判した判決で寺院規則の無効を審判したものではない、右説示も判決に関与した判事の意見に過ぎないもので右のような説示があつても右寺院規則が無効だと確定したことにはならない、加之右最高裁判所の判決は昭和二十一年三月十二日制定の寺院規則に関するもので本件認証の対象となつた昭和二十七年六月十八日制定した寺院規則に関するものではない、従て本件に於ては証拠にならない、特に本件認証を違法なりとするときは七百年の由緒ある法華経寺が解散となり全国幾万の檀信徒をして信仰の目標を失わしむることになり非常な混乱に陥らしむるは火を観るよりも明らかである、斯くなることは公共の福祉に適合しないものである、裁判所に於ては此点充分御考慮せられたい。(行政事件訴訟特例法第十一条参照)

八、口頭弁論終結に際し、被告は次のことを主張する次第であります。

裁判所は民事訴訟法第百八十五条の規定に基づき口頭弁論の全趣旨を斟酌して正しい判決をすることと信じて居りますが今本訴訟進行の過程を顧まするに、行政事件訴訟の公益性の故に活溌に発動されるものと期待して居たいわゆる釈明権の行使が極めて不充分であつたと考えられます。

又本訴訟に於ては行政事件訴訟特例法第九条の規定による職権証拠調べが積極的に行われるものと期待し、且つ被告として特にこの点を要請しておいたにも拘らず遂に職権による証拠調べは行われなかつたのであります。

行政事件でも、一般行政行為に関する訴訟に於ては行政庁は当該行政行為の有効なことについて充分なる主張もし、立証もするのが常であるが本件訴訟に於ては、この点について著しく趣を異にするものがあるのであります。即ち、信教の自由を尊重する立場から宗教法人法に定める認証行為を行う際の行政庁の立場は言わば甚だ消極的でありまして、認証申請書類が法定の要件を具備して居るか否かを審査して認証の可否を決定するに過ぎず。認証申請書類に記された寺院規則等が実質的に有効に成立したものであるかどうかというような実質的審査は行つて居らないのであります。

随つて、この基本的態度と照応して、本件訴訟の口頭弁論に於ても、被告は、本件訴訟の請求の原因中で主張されて居る「寺院規則の無効」という点については必ずしも明瞭にこれを主張することなく、裁判所の釈明権の行使と、積極的な職権証拠調べの権能の発動によつて、客観的真実が発見されることを期待して居る次第であります。意識しながら口頭弁論を或る程度に止めざるを得ないというこの被告の立場を裁判所は充分認識されたいのであります。

本件訴訟の結果は単に宗教法人法華経寺と取引関係を有する者に利害関係を及ぼすのみならず数万名に上る檀信徒に重大な影響をもたらすものであつて、判決の結果が公共の福祉に及ぼす影響は蓋し甚大であると言うべきであります。

裁判所は弁論終結に当り行政事件訴訟特例法第九条の法意について格段の注意を払われるよう要望します。

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